青木理よ、政治の圧力がないからこそ、君はサンモニで好き勝手に喋れているのだ。

いま巷で話題なのがWBC。そして永田町界隈と政治ウォッチャーの間で話題なのが、いわゆる「小西文書」である。その「小西文書」だが、総務省が10日付で、精査結果を発表した。その内容は半分以上が作成者不明、発言者に対する内容の確認が行われたものは皆無というお粗末なもので、不自然・不一致なものも多数発見されたそうだ。
要するに、小西やアベガー連中にとって、公式な行政文書であることのみが頼みの綱であって、深掘りする内容がないのだ。掘れば掘るほど信憑性の疑義に出くわすので、小西など、「高市大臣が辞職しないことは法の支配と民主主義の否定です」などと意味不明なことを呟きだした。
文書で名指しされたサンモニもこの情報を取り上げたようだが、私はこの番組を観ていないので、情報源であるTwitterをのぞいてみた。サンモニのエース、青木理(爆)は、時の政権が番組内容に口出しすると「検閲になる」と騒いでいたようだ。朝日新聞もそうだが、サンモニの存在自体が、報道・放送の自由を証明しているようなものなのだが、自覚はないようだ。
その青木のインタビューが、AERAに掲載されている。ネタはもちろん放送法で、青木にとって味方である朝日系のメディアだからか、青木は雄弁に語る。
そして、礒崎氏が主張する「政治的公平性」の解釈について、こう批判する。
「文書の中で礒崎氏らが盛んに言っているのは、国民的に議論が二分されるテーマは公平にせよということです。たとえば特定秘密保護法にしても安保法制にしても、政権は何が何でも押し通したいが、反対する声は大きかった。実際、それぞれの政策には重大な問題もあった。それが政権側から見れば『国論を二分』という理屈になるのでしょうが、それでメディアに『政治的公平性』を保てということは、『政権批判をやめろ』という意味に等しい。批判をするなら同じ分量で政権の立場も伝えろ、ということになれば、物事はすべて相対化され、時の政権や各種権力を監視するメディアとジャーナリズムの使命は死にます。結局のところ、政権に批判的なメディア、番組をつぶしたいのが本音なのでしょう」
はて、政治的に公平になることが、どう考えても「政権批判をやめろ」という結果に結びつかないと思うのだが、青木は何を言っているのだろう。放送法第四条は、「放送番組の編集に当たっては、政治的に公平であること」と求めている。この論理で言えば、政治的公平性を要求している側と、政治的に偏向する番組側のどちらに非があるかといえば、番組側にならざるを得ない。そのような観点から見れば、青木の発言は自爆に等しい。
青木は、高市氏が出てくる場面をこう独自に解釈している。
「本当にそういう電話があったのかは知りませんが、一般的に官僚は政治家に忖度するものです。まして官僚は時の大臣の意向に沿って仕事をするわけですから、大臣が誰と会って何を話したか、どういう意向を持っているか、日常的に目と耳をそばだてて情報収集する。それを公文書として保存するか否かはともかく、メモとして残しておくのは生来の習性でしょう」
もうお分かりだろう。これはモリカケ・ロジックなのだ。文書の正確性が担保できないので、青木は「忖度」を持ち出した。青木は官僚の習性を自分勝手に述べているが、そのすべては推論に基づいている。こんなことで大臣の首を飛ばされたらたまらない。
「現実にさまざまなテレビ番組があり、中には劣悪な番組があるのも事実でしょうが、時の政権や閣僚が自らの尺度で『公平性』を押しつけるのは、まさに政治権力の横暴であり、メディアへの政治介入です。まして放送行政をつかさどる総務大臣が『これは極端』などと断ずるのは放送メディアに対する介入であり、許されないことです」
ホントにバカな主張だ。時の政権や大臣が「政治介入」しなかったからこそ、青木はサンモニで自由に発言できているのだ。文書は結局のところ、放送法の解釈はそのままに据え置いている。何の押し付けもないのだ。それなのに青木は「政治権力の横暴」などといい、安倍政権を批判する。
結局、青木のような人は、「権力者はともすれば弾圧する」という手垢のついた戦後の陰謀論にすがっているだけなのだ。もう古すぎて、ついてくる支持者は限定的であることを、そろそろ学んだらどうなのだろうか。
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