日本人サポーターのゴミ拾い ~ 善行を褒めるという“当たり前の行為”は否定されるべきではない

サッカー日本代表チームコスタリカ戦の敗戦は返す返すも残念だ。相手がペナルティエリアに入ったのは僅か2回で、枠内シュートは1本。その1本が日本のゴールを割り、16本のシュートを放った日本は得点を奪えずに終わった。これもサッカーといえばそれまでだが、恐らく日本に敗れたドイツのサポーターも同じような思いをしていたのだろうと思う。
で、コスタリカ戦の敗戦を受け、橋下徹がなにか訳の分からないことを言っている。
【W杯】橋下徹氏 日本痛恨の黒星に私見「なんとなく日本全体が緩くなっていたことはあった」 (日刊スポーツ)
元大阪市長の橋下徹氏が28日、フジテレビ系「めざまし8」(月~金曜午前8時)に出演。FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本がコスタリカに敗戦したことを受け「スペイン戦まで口にチャックをしておいたほうが良い」と持論を述べた。
敗戦から一夜明けて、橋下氏は「今回はにわかファンの責任は重いと思いますよ、僕を含めて」と前置きした上で「コスタリカが(スペイン戦で)大敗したこと。ドイツに日本が勝ったことだけで、行けると思ってしまった」と説明した。(以下略)
一体何に対する、誰に対する責任なのか、意味が分からない。敗戦に対する責任というなら、お門違いも甚だしい。そもそもどんな対象に対してもいきなりコアでディープなファンになるということはあり得ず、皆“にわか”から始まり、そのさざれ石のようなファンが固まっていき、サポーターになるのだ。こういう大会は“にわか”を量産するもので、ドーハの悲劇の時など、ランチ後の日比谷の喫茶店は、客全員がサッカー解説者のような口ぶりで最終予選を論じていた。だからにわかは否定するものではなく、彼らが口にする希望は、代表チームへの期待なのだ。そこに責任を求めるというのは筋違いだろう。
何かと話題になる4年に1度のワールドカップだが、試合観戦後の日本人サポーターによるごみ拾いについて、それを批判する向きもある。舛添要一や井川意高氏がゴミ拾いの行為を批判的に論じているが、この件については全く同意できない。
そもそも善行を褒めるという当たり前のことが否定されてはならないと思う。「来た時よりもきれいに」という哲学は、子供のころの教えとして日本人の中に植え込まれている。私が良く行くキャンプでも、撤収した後は必ずゴミが落ちていないかの確認をするし、前の人が残していったゴミは、自分のゴミとして処理する。この繰り返しが、来日した外国人が「ゴミひとつ落ちていない」と驚愕する日本の風景を作ってきたのだし、その文化は大切にすべきではないだろうか。
舛添は「現地の人の職を奪う」と言うのだが、日本人サポーターがいた場所が清掃されていたとしても、それはスタジアムの一部でしかなく、現地の清掃員は仕事が楽になったと喜ぶだけだろう。他国のスポーツ会場に行ったことがあるなら、わかりそうな話だ。
試合後のゴミ拾いは、自分たちのゴミを拾うこと以外に、その場所 ―― 今回で言えばスタジアムを大切にする行為でもある。私が知るプロサッカーチームのスタッフの人は、ACLで南鮮のスタジアムに行き、同じ2002年のワールドカップのために作られた日本のスタジアムと比較して、その劣化に驚いたという。補修の資金の有無もあるだろうが、きれいな環境を「次の観客、次の世代のために」と思い、それを行動に移すことは、称賛されることがあっても、否定されるような事柄ではない。
我が代表チームも、現地に赴いた日本人サポーターも、日本の立派なアンバサダーだ。そしてその話題となった行為は、日本を訪れる訪日外国人の行為にもきっと波及する。この好循環を否定的に語る人の考え方が、やっぱりよくわからないのだ。
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