国葬儀による「国論分断」はメディアの演出による虚構だ

27日の安倍総理国葬儀が終わり、世の中すこしは喧騒が収まってくれればと思うが、現実はそうではない。もう国葬反対のデモ隊が街に繰り出すことはなく、「あんな人たち」や「こんな人たち」の姿を見たり、彼らが発するノイズを聞いて不快に思うことはないだろう。だが、この国葬の価値を貶めようとする側が、その活動を止めるわけではない。
テレ朝のモーニングショーでは、国葬を見聞きする人の感情を殊更揺さぶった菅総理の友人代表としての追悼の辞を、なんとかディスろうと躍起だったようだ。玉川徹は「自分は演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきました。政治的意図が匂わないように電通が演出した出来レース」などと、感動的に見えるように意図的に作られたと主張したそうだ。
玉川には「下衆」という表現がぴったりだが、テレ朝を含め、TVメディアには自分たちが反国葬を煽ってきた背景があり、その彼らが国葬の価値を認めることなどありえない。真正面から国葬に向き合い、反論するならまだマシだが、TBSなど岸田首相と菅前首相の辞を途中で打ち切り、細田、尾辻両院議長、戸倉最高裁長官の存在はなかったことにされたという。正しく放送されなければ視聴者は評価しようがない。ありのままに伝えることを拒む放送局があるなら、それはさしずめ、偏向報道のスプリンクラーみたいなものなのだ。
だが、お生憎さま。辞で菅元首相が触れた岡義武著「山県有朋」は早くも重版が決定し、Amazonの新書は11,000円オーバーという、電子版の12倍以上のプレミアがついている。偏向テレビ局などなくても、国民は欲しい情報にたどり着く術を得ているということだ。
献花(筆者撮影)
さて、反アベの本家であり、本丸である朝日新聞は、国葬を欠席したそうだ。朝日にしてみれば、出席となれば「いったいどのツラ下げて」と批判され、欠席となれば「人の死を弔うことすらできないのか」と批判される。そういう逃げ場のないポジションを、自ら作ってきたのは彼ら自身だ。国葬儀の翌日の朝刊では、「安倍氏「国葬」 分断深めた首相の独断」の銘打った社説で、国葬の開催自体を批判している。朝日の論調は、まるで平壌の国営放送のように変わり映えがしない。朝日自身も決め手を欠いて安倍内閣を追い詰められなかった相変わらずの「モリ・カケ・サクラ」3点セットを持ち出し、「負の遺産」などと定義している。そして、「業績への賛否は分かれ、評価は定まっていない」などと説く。
朝日は社が存在する限り、安倍政権をディスりつつ、評価を定めるつもりなんてない。いつまで経っても定まらない評価があってこそ、朝日はアベガーを続けられる。南朝鮮が日本に対して永遠にたかりを続ける慰安婦問題と同じメカニズムだ。そして、結びで彼らはこう書く。
数々の疑問や懸念を抱えた国民を置き去りにしたまま、国葬は行われ、社会の分断にとどまらず、国民と政治との溝を広げることになった。その距離を縮め、信頼回復の先頭に立つのは、国葬を決めた首相以外にない。週明けに始まる臨時国会への対応が試金石となる。
あの献花の2万5889人のひとりとして、その場に身を置いた肌感覚で言えば、この「分断」なるものはメディアが演出した虚構であったと感じる。国葬儀の献花に2万5千人以上、デジタル献花プロジェクトでは40万人以上が総理にメッセージ付きの献花を贈るという前代未聞の出来事。対して主催者発表1万5千人だが、日本野鳥の会ボランティアの実数計測で307人だったというショボい反国葬デモ。
国葬献花列(参議院宿舎前交差点あたり)
国葬に懐疑的な見方をする人が多かったのかもしれないが、それは分断ではない。懐疑的な見方をする人であっても、故人を悼み、静かに送り出そうという考えを持つ人は多かったはずだ。早い話が、この儀式を賛否の二元論で語ること自体がナンセンスなのだと思う。
一昨日のTwitterで、「#安倍さんありがとう」が世界トレンド1位になったそうだ。分断など、メディアが作った虚構である。この事実が、何よりの証明だ。
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