終戦の日と、平和主義・平和憲法という新興宗教

今日15日は仕事を休めないので、昨日のうちに靖国神社を参拝する予定だったが、どうも体調を崩してしまって叶わなかった。いまの日本人が平和を享受できているのは、靖国に祀られた英霊の存在があったからだと強く思う。秋の例大祭には参拝しようと思う。
さて、今日の終戦の日には、どこもかしこも平和ということばが溢れかえる。平和こそ人類の普遍的価値だといわんばかりに、理想論を振りかざす人も多い。もちろん、平和というものを否定する考えはないが、平和の概念が少し違う。平和とは、「戦争の事前と事後にある戦争の欠如状態、即ち、戦争してゐないといふだけの事」と、戦後保守の重鎮的存在であった福田恒存は喝破している。そして、「何かを守る為には戦争をも辞さぬといふ、その何かが無ければ、平和そのものも守れまい」とも言っている。
そういう客観的な視点を蔑ろにした平和原理主義は、もはや新興宗教と言ってもいい。平和である状態を長く保つように不断の努力をすることは重要だ。だが、平和を念仏のように唱えたところで、我が国の領海近くに弾道ミサイルをいくつも着弾させるような国家を相手にしたとき、その念仏は通用しない。不法に拉致された我が同胞を取り返すこともできない。福田の言うように、「何かを守る為には戦争をも辞さぬといふ、その何かが無ければ、平和そのものも守れない」のだ。
福田恒存
2014年だからもう8年も前のことになるが、朝日新聞が“どこにでもいる主婦”という体で紹介したプロ市民が「今こそ平和憲法の大切さを世界に広めたい」と、ノルウェーのノーベル委員会に英文で「日本国憲法、特に第9条に平和賞を授与して下さい」メールを送り、署名サイトを立ち上げ、運動を起こしたことがあった。ノーベル賞受賞者に据えられたのは「日本国民」である。「平和憲法」とはまさに彼らにとっての経典なのだ。
平和憲法、もしくは平和主義という観念は、「強制的な勧誘によって入信させる。また、多額の寄付金を強要する」という定義が当てはまらないことからカルト宗教として認定することはできないが、たかが推定6万人の旧統一教会(60万人いるという阿呆がいるが、退会者、または退会同然の状態にある信者数を考慮に入れていない)と比較すれば、その影響は弱小カルトと比較しても桁違いに大きい。早くこの平和主義という新興宗教の欺瞞に気付き、一人でもいいから脱会者を増やしたいものだ。
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