女性とアスリートの愚劣な政治利用を批判する

立民党の辻本清美が終戦の日に発信したツイート。
76年目の終戦の日。当時、戦争を遂行した内閣に女性はいなかった。「命を絶対に守る」という女性の声を政治が受けとめていれば、結果は違っていたとさえ思う。そして今、戦争を止められなかった教訓がコロナ禍で活かされているだろうか。先の戦争の反省と総括こそが政治家の責務だと改めて肝に命じる
— 辻元清美 (@tsujimotokiyomi) August 15, 2021
ちょっと言っている意味が分からない。「女性が内閣にいれば戦争を止められたはず」と言いたいのだろうが、先の大戦はそんな単純化できる話ではない。戦争に至ったのは内閣の閣僚がすべて男性だったからだと言いたいあなら、それは明らかに男性に対する侮辱だ。都合よく女性を持ち出さないでほしい。女性があれだけ同時出演していても、張本氏の発言に誰一人コメントも異論もはさまなかったたサンモニを、辻本ならどう総括するのだろうか?
もちろん、戦争の責任論が発展する先は政治である。だが、その責任とて、多種多様の解釈がある。東条英機は「敗戦」に対する責任は自らにあると認めたが、「開戦」に対する責任は認めていない。責任と言ったって、ひとくくりでは語れないほど複雑なのだ。先ごろ閉会した東京2020オリンピック大会に関する責任を、政治や組織委にではなくアスリートに波及させる向きがあることは、拙ブログで何度か指摘した。このフェミニストも、その一人である。
上野千鶴子、五輪の強行開催のツケは「政権に払わせるべき」 (AERA.dot)
五輪にまつわる経費は増え続けています。湯水のように金を使っている。大会の感染症対策にも莫大な費用がかかっていますし、医療費はすべて国費持ちです。この「請求書」は、国民である私たちに回ってきます。いったいいくらになるのか。自国開催に向けた強化に充てるスポーツ予算も増えていました。メダル1個あたりにかかった費用を計算してみたいですね。
「アスリートに罪はない」「選手がかわいそう」という言葉が五輪の免罪符のように使われましたが、最近の感染状況を見るとこれにも賛同できません。国民全員が我慢を強いられています。「みんなでこの難局を乗り越えるために、一緒に我慢しよう」とアスリートに求めてはいけないでしょうか。
政権には、このツケを払ってもらわなければなりません。政治家に責任を取らせる責任は私たち国民にあります。(抜粋)
上野は、国民が我慢しているのだから、この難局に立ち向かうためにアスリートに対して「一緒に我慢しよう」ということを求めたいと言っている。であれば、高校球児に対しても「君たちも野球を我慢しよう」と言わなければならない。上野はこの記事で、「パラリンピックも甲子園も、本来中止すべき」と言いつつ、「五輪を開催しているのにやめろとも言えない」と言っている。そういう免罪符を与えていながら、五輪アスリートに対してのみ、「一緒に我慢しよう」と求めるというのだ。
どちらかに優劣をつけるつもりはないが、甲子園大会は高野連や朝日新聞らが高校球児に与えた競技の場であり、一方でオリ・パラは、国際的な約束ごとだ。野球やサッカーは人数を制限して興行をしていながら、オリ・パラだけ中止となれば、この手の国際大会はもう日本には来なくなる。そういう意味で、オリ・パラは将来への投資でもあり、平面的にみるべきものではないのだ。こういう人たちは、恐らく、中止したらしたで、「この損失をどうするのか」と、サンクコストを含めて批判し出す。どのみち、同じなのだ。
アスリートがひとたび中止論を述べれば、その発言は間違いなく政治的な運動に利用される。池江璃花子氏に出場辞退を求めた例が何よりの証だ。だから彼ら、彼女らは、安易に声を上げられないのだ。決して優遇されているわけではない。
上野が「ツケを払え」と求めるべき対象があるとすれば、それは政治であり、アスリートに対して言うのはお門違いも甚だしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
当ブログはブログランキングに参加しています。ご面倒ですが、是非ともバナークリックをお願いいたします。
バナーが表示されない場合はこちらから。
人気ブログランキング | にほんブログ村 政治ブログ | FC2 ブログランキング