原爆を正当化する米国のプロパガンダを、日本人が鵜呑みにする必要はない

これは、広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた一文である。ラダ・ビノード・パール氏が、「日本人が日本人に謝罪している」と解釈し非難した碑文だが、パール博士の指摘以前に、この文には主語が無く、いったい誰が誰に語りかけているものかという議論を呼んだのは有名な話だ。

パール博士の批判に対し、この碑文を起草した雑賀忠義広島大教授は、このように抗議している。
広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰り返さないと霊前に誓う ―― これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。“広島市民が過ちを繰り返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰り返さぬではなく繰り返させぬであり、広島市民の過ちではない”とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰り返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。
雑賀教授の思想にいかなる背景があったのかは不明だが、世界市民という、戦後の左翼が頻繁に使用するフレーズが入っていることで、想像は可能だ。つまり、ことばの主体を日本人ではなく、世界市民に置くことによって、「日本が悪いことをしたから戦争で原爆を落とされた」という東京裁判史観を丸呑みしたということだ。
この碑文に対して疑問を投げかけたのは、パール博士だけではない。1993年、マレーシアのシャフシェー元外務大臣が来日した時のことを、このように語っている。
以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供たちに「日本は昔悪いことをしました。これはその記念碑だ」と教えていたのを見ました。それで広島市長に「原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持って行き、アメリカ人にも見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います」と言ったところ、広島市長たちは真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほどおびえているのか。敗戦国心理から早く脱却すべきではないでだろうか。
原爆を被爆国日本として評価すること自体が「せせこまし」く、他のアジアの国には「おびえている」ように映る日本人は、「米国の脅威になり得る日本の芽を摘む」というGHQの占領政策を忠実に守る民族の矜持を失った姿をしていたのだろう。
原爆に対する歴史認識は、加害国と被害国では正反対だ。何度か指摘してきたが、米国における一般的な歴史認識とは、「原爆によって、戦争が続いた場合に生じたであろう数多の米国人および日本人の命が救われた」というものだ。よくもこんな偽善的な認識で国民を統一できるものだと不思議になるが、このような洗脳がいまだに効いているのは、米国人でさえも、強力なプロパガンダには抗しえないということを意味している。
諜報に秀でていた米国が、日本がロシアを通じて戦争終結を模索していたことを知らなかったわけがない。実際、米国における戦後の研究において、日本が原爆投下以前に降伏を準備していたことが、数々の証言によって明らかになっている。
原爆孤児に対する熱心な支援を評価され、広島市特別名誉市民となり、平和記念公園に自身の名で記念碑が建立されたノーマン・カズンズは、こう語っている。
海軍のスポークスマンによると、日本は広島に原爆が投下される前に降伏の用意があったという。となると、何千何万という数えきれないほどのアメリカ人の命が救われたという主張は、どうなってしまうのだろう。
このカズンズの発言などが米国の政府関係者の神経を逆撫でした。その後、米国政府によって、原爆投下を正当化するための工作が行われ、トルーマン大統領も「二十万の我が国の若者の命を救い、敵側の三、四十万の命を救うことができると判断したから投下の決断をしたのだ」という発言を繰り返すこととなる。
ところが、米国政府のプロパガンダは、内部から再び批判されることになる。
ウイリアム・リーヒ海軍大将 ~ 大統領首席補佐官としてルーズベルト、トルーマンに仕えた大物
私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされており、降伏寸前だった。
あれを最初に使うことによって、われわれは暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない。
ドワイト・アイゼンハワー連合軍最高司令官(WW2当時) ~ 後の米国大統領
彼(スティムソン陸軍長官)が関連の事実を述べるのを聞いているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのがわかって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗戦は濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だという信念を持っていた。第二に、アメリカ人の命を救うために、もはや不可欠ではなくなっていた兵器を使用することによって世界の世論に波紋を広げることは避けるべきだと考えていた。日本はまさにあの時期に「面目」を極力つぶさない形で降伏しようとしていると、私は信じていた。
米国にも様々な意見がある。だが、米国の統一された歴史認識は、戦後ずっと「原爆によって多くの命が救われた」という無理筋な正当化であって、米国政府もメディアも、必要以上の深入りを避けている。Webを確認する限り、New York Timesは、8月6日をほとんど報じていないし、Washington Postも、写真を掲載して、AP通信の配信を転載するだけで、論評は避けている。
何故このような理不尽な歴史認識がまかり通るのかといえば、それは日本が抗議しないからだ。何も米国と対立せよとは言わない。戦後ずっと、事実上の米国の保護国であったため、政治的には言いたいことも言えない立場にあったことも事実だ。しかし、被害者である日本が、「過ちは 繰返しませぬから」と言っているようでは、米国のプロパガンダはびくともしない。「日本が悪い事をしたから原爆はしょうがない」という、日教組が仕立てた歴史の解釈がある限り、日本の自立や、主張する外交が確立されることはない。
東京裁判におけるブレイクニー弁護人の弁論を噛みしめながら、広島、長崎で亡くなった方々の冥福をお祈りします。
キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか
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